INFORMATION

MUSIC AGAINST THE FUTURE 第1弾 @HMV SHIBUYA ご報告

皆様、

スタッフです。
先日は、本当にありがとうございました。
ご存知の方も多いかと思いますが、 今回、行なった事は1500枚の無音パッケージの配布です。

無音パッケージとは、見た目は全く同じで、 一部表記以外は、製品と全く差が無いのですが、 音源のみが入っていないもののことです。

僕らがそこに込めたメッセージは、 ただひとつだけです。

一緒に音楽の自由を考えてください。

本当にそれだけです。

音楽はどんどん手軽になり、 違法な手段で無料で得る事も容易い時代です。
違法な手段は良くないですが、手軽さのすべてを 一概に否定する事は出来ません。

ただ、もし、仮にです・・・
音楽が合法に無料で得る事が出来る世界になったとしたら、 それが、皆さんの求める理想の世界でしょうか?
それが音楽の本当の自由でしょうか?

僕ら業界のスタッフも真剣に考えています。

もしかしたら、その世界では、 HMV渋谷のみならず、 皆さんが音楽を探す店は全てなくなるかもしれません。
僕らのようなレーベルも必要なくなるかもしれません。

リスナーはもちろん、アーティストにとって、
それが本当に幸せな事であれば、 それを受け入れなければならない時代は、
10年後、100年後、いや、1000年後、 いつか分かりませんが、自然に現実の必然の選択としてやってくるのでしょう?

でも、本当にそれが皆さんにとっての音楽に対する 幸せかを一緒に考えてみたいと思いました。

MUSIC AGAINST THE FUTUREは、まだまだ続きます。
これはもちろん強制ではないし、 一方的なメッセージや警告でもありません。

本当に本当に一緒に考えていく事でしか、 僕らには分かり合えない何かがあるし、
完璧なたったひとつの解決策なんて無いのです。

だから、一緒に音楽の未来について考えましょう。

本日お配りしたパッケージという印刷物は、
極論、レーベルにとって無料で配っても、 痛くもかゆくもありません。
その証しに本日は特別に無料配布しました。

皆さんが、お年玉を貯めたり、
一生懸命お仕事されたり、バイトして稼いだお金を使って、
もしかしたら、昼ご飯をがまんしたり、 好きな煙草やお酒をちょっと控えて、
数千円も払って頂いているCDは、 それに収録されている音楽と言う形の無いものへの対価なんです。
一緒に、その音楽という形の無いものの現代での在り方を考えましょう。

それぞれの立場で、好き勝手にでいいです。
考える事が第一歩です。

本日は、本当に有り難うございました。
あと、FACTも顔出してくれて有り難う!!!
来てくれた皆さんに、本当に本当に感謝しています。

何度も言いますが、 FACTファンだけで終わらせたくない企画ですので、
何か感じた方は、ツイッターやミクシィーに、 何でもいいので自分なりに書いてみて下さい。
この小さな波紋を拡げましょう。

maximum10 STAFF

MUSIC AGAINST THE FUTUREとは?

自由であることを権利とすべきか? 義務とすべきか?
責任とすべきか? はたまた、それ自体を主張とすべきか?
自由とはメッセージではなく、常に考えるべき課題ではないか?
【Peter Ferdinand Drucker 先生の言葉より】

『自由とは解放ではない。責任である。
楽しいどころか一人ひとりの人間にとって重い負担である。
それは、自らの行為、および社会の行為について自ら意思決定を行うことである。
そして、それらの意思決定に責任を負うことである。』

『たしかに経済的な窮乏は悪である。
しかし、そのような窮乏でさえ、自由の喪失ほどの悪ではない。』

『今社会は精神的な価値への回帰を必要としている。
物質的な世界を補うためではなく、
物質的な世界に意味を与えるために必要としている。』

『本物の変化とは人が行なうことであり、
一時の変化は人が言うことである。』

『変化はコントロールできない。 できることは、その先頭に立つことだけである。』

『まだ行っていなかったとして、今これを始めるか?』

音楽は最も原始的なアートです。最も触れ易いアートです。
身体的な障害がなければ、誰しもが声を出せるし、歌えるのです。
ただし、時間に関しては、音楽は不自由なアートでもあります。
絵画も写真も小説もそれを得る時間を受け手側が自由に決める事ができ、
逆に映画は作り手側が時間を圧縮することも早回しすることもできます。
ただし、音楽だけがアートの中で唯一、作り手側と受け手側が、絶対軸としてリアルな時間を共有しなければなりません。
だからこそ、音楽はコピーを許し、コピーを本物とすべく進化して来たアートなのかもしれません。

敢えて、そう呼びますが、現代の資本主義にのっとった音楽、いわゆるパッケージ商品は、
元からコピーされる前提のマスターを制作する過程で、
アーティストが己の全てを注ぎ込むという矛盾に満ちています。
もし、モナリザを完全に模した作品があっても、それは本物の何千分の一の価値になりますが、
パッケージ商品に収録された音楽はコピー自体が本物であり、それに対する対価こそ真価であるが故に、
マスターはいかにそのコピーを素晴らしく創るかのために、最初から尽力される唯一のアートなのです。

この世でたったひとつしかないマスターは、
多くのリスナーが手にするコピーを越えてはならないのです。

不景気だから、デジタル化によって容易にコピーのコピーが出来るから、ネット社会だから・・・
パッケージは売れなくなったのか?

拝啓、ドラッカー先生。
maximum10は、敢えて、その変化の先頭に立ってみたいと思います。

今、誰かが何かを始めなければ、今、起こっている『不可解なそれ』が変化でも自由でもなく、
ただの悪になってしまうという危機感があるからです。
私たちは形のあるものを求めている訳ではなく、音楽という無形物に動かされているのです。
本来、それはマスターやコピーという概念を持ってはいなかったはずです。

リスナーにとって、音楽が無料になる事が本当の幸せか?
アーティストやスタッフにとって、
90年代の音楽バブル時代に戻りパッケージが面白いように売れるのが本当の幸せか?
何が悪で、何が正しいかなんて、今はまだ誰にも分かりません。

誰しもが純粋に素晴らしい音楽と出会える為に、リスナー、アーティスト、スタッフ、それぞれの立場で
「先生の言った自由を考えてみるべきです」
僕達が今、言いたい事は、たったそれだけです 。